2017年05月18日

た空砲弾に

一衛が軽く咳をしたのを、直正は見逃さなかった。
「一衛……?夜風が冷たいか?」
「いいえ。土埃が舞っているから……少しむせただけです。」
「そうか、気を付けろよ。一衛は元々喉が弱いのだからね。」
「平気です。」
振り向けば、小柄な青年のように見えたその人は、懐から何かを取り出すと、壁にがりがりと刻書した。
しばらく月を見上げて、物思いに浸っていた様子のその雲芝靈芝姬松茸人が残した一首は、万感の思いが込められた絶唱だった。
松平容保?喜徳父子は政府軍の軍門に下り、降伏を請う降伏式が行われた。
新政府の役人は一段高いところで、椅子に座ってふんぞり返り、敗軍の将は緋毛氈の上に敷かれた粗莚(あらむしろ)の上に直に平伏した。
藩士たちは深々と首を垂れる容保の姿に、一様に涙した。
武士の命でもある大小も差さず、丸腰で麻裃だけを着けた容保の心中を思うとたまらなかった。
やっとの思いで開墾し芽が出ても、収穫の時期になるとイナゴが襲った。
すべて食い尽くされた畑に、燃やされたイナゴの死骸が山積みになったのを、涙も枯れ果てた元会津藩士と家族が見つめる。
悲惨に餓死するものさえ少なくない。誇りは飢えに穢された。
少ない食べ物を求めて奪い合う姿がそこにあった。
籠城で生き残った老人が、世をはかなみ喉をついた。
一藩総流罪ともいえる新政府の過酷な仕打ちに、人々は涙も枯れ果て力尽きてゆく。
山川大蔵は苦労を重ねる民のためにと、血を吐く思いで新政府に頭西聯匯款を下げ金を無心したが、わずかな金はすぐに尽きた。
誇り高い会津武士が、地元の子供たちに豆しか食えない鳩侍と揶揄され、会津のゲダガ侍と陰口をたたかれた。
ゲダガというのは地方の言葉で、毛虫のことを言う。
毛虫のように、野の葉でもなんでも食えるものは口にしたのを、こういわれた。干した大根の葉でも、食べられるのはまだ良いほうだった。
家老の胸に抱かれて、再興の北の地に向かった幼い藩主容大(容保の息子、かたはる)も虱(しらみ)にまみれた。
降伏式の後、容保は城内に戻り、遺体の投げ込まれ井戸の前に花を捧げて冥福を祈っている。
生き残った藩士は、涙にくれながら去りゆく城主の背中を見つめていた。
直正の父は白河で行方不明となり、母も長刀をふるって娘子隊とともに入城したのち、城内で吹き飛ばされ井戸で眠る。
腐臭の漂う城内で、重臣、藩士たちと別れを告げた容保は、謹慎所となる寺へ向かった。
籠城したものは、女性子供も含めて、実に4956人を数えた。
城内にいる16歳以上の藩士は謹慎所へと向かう。


Posted by でもご両親のこ at 13:10│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。